ミラノ雑感

言葉を使うということに向き合う場所。

オックパツィオーネ(学校占拠)から思うこと

 息子の学校で、いわゆるオックパツィオ―ネ(学校占拠)が行われた。1週間に及ぶ長期の占拠で、半数近い学生が参加したこともあり注目を浴びて新聞にも取りざたされた。

 

Liceo Carducci in protesta: oltre 500 studenti occupano la scuola per un'istruzione migliore (primadituttomilano.it)

 

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イタリアには「セッサントット(68年)」と言われる代表的な学生運動世代がある。権威主義的な大学運営や老朽化した学校設備の問題から、資本主義や保守的な社会秩序に対する抗議だった。

 

 60年代からの社会的な動きは、同時代の日本での学生運動や過激派の活動など似たところがあると思う。その当時ほどの勢いはないけれど、イタリアでは、今も高校には必ずと言っていいほど「コッレッティ―ボ」と呼ばれる学生の政治集団がいる。これは、大学生よりも高校生の活動といった感じがする。左寄りの政治的立場を取り、学校運営にも声を上げる。そして、このオックパツィオ―ネで中心的な役割を果たす。

 

 今回のオックパツィオ―ネで学生たちが求めていることは色々あるけれど、この数年の間に抱え込んだフラストレーションに、何か理屈を添えようとしているようにも思える。コロナ禍の中で、遠隔授業を余儀なくされ、漸く学校に戻っても様々な課外授業が中止される。教師陣もロックダウンでいきなり遠隔授業を強いられ、その後1年半の間、あの手この手で手を抜こうとする学生を相手に遠隔授業をしてきた。現場での授業を再開すると、学生たちの学力は当然通常あるべきレベルにはない。そういう、お互いに対するフラストレーションと、政府に対するフラストレーションを形にしたのがこのオックパツィオ―ネのようである。

 

 新聞のインタビューで挙げられていた抗議内容は、卒業試験プログラムの急な変更(小論文+口頭試験に加え筆記試験を追加)、点数重視の成績評価、成績評価基準の曖昧さ、課外授業の中止、教師の待遇改善、教師に対する教育学必須化、精神カウンセラーの不足、政府の教育予算の軽視(2017年のGDP費に占める政府の教育費の割合は欧州で下から2番目に低い。日本より若干少ない)。

  

 秋口からローマでも高校生がオックパツィオ―ネと抗議運動を繰り返している。ミラノでも、同じ様に複数の高校でオックパツィオ―ネが始まっている。

 

 よく分からないというか、複雑な心境になるのは、セッサントットは反体制運動だったけれども、今回はやりとりがとてもソフトなのだ。先生たちは、日中は(少数の生徒相手に、もしくは生徒無しで)授業をし、校内を占拠してぶらぶらしていて教室に来ない生徒に欠席を付ける。恐らく教育相は、筆記試験を取り下げるだろうと言われている(未定)。オックパツィオ―ネをする学生に大人たちは「頑張るのよ、負けちゃだめよ」と声をかける。抗議運動に街を練り歩く学生をみて、こぶしを振って喜ぶご老人たち…。

 

 突っ込もうと思えばいくらでも突っ込める抗議運動だ。遠隔授業の間、スクリーンオフのままベッドの中から授業を受け、あの手この手でカンニングしながら試験をパスし、先生方もそれを知っていて諦めモード(2020年は成績が付けられないのは当然という社会的共通理解だった)。小中学生ならともかく、高校生はもう少し自覚があるものではないだろうか。卒業試験に関しても、「こんなに大変な時期を過ごしたのに」というが、コロナ前の試験と同じものでないことは既に発表されている。卒業試験の内容が変わる可能性は当初から言われていたので、筆記があることを想定して勉強していれば済んだ話ではないのか…。

 

 それでも、コロナ禍を境に、ひきこもりになってしまった子やパニック症候群に陥る子なども急激に増え、若者の自殺率が高くなっているという話もたびたび聞く。「家で授業を受けて、友達とチャットして、ゲームして、音楽聞いていた」ロックダウンは、満ち溢れるエネルギーと壊れやすい繊細な感受性を持つ十代に明確な傷跡を残している。

 

 1週間のオックパツィオ―ネを終えて帰ってきた息子は満足そうだ。「最後の会合も感動的だった。いつもは恥ずかしがりやで人前で話さない子まで、皆の前に出て語ったんだ。最後は皆で色んな歌を歌ったよ」抗議していた点に関して何か改善策が提示されたわけでもなさそうである。

 

 話を聞いていると、息子の学校の教師たちはかなり腹を立てているらしいが、校長先生は、生徒が好き放題するのを適度に理解を示し、適度に手を加え、適度にサポートしていたようだ。その校長先生が「廊下をどこに行こうかうろうろしている生徒を見かけた。感動的だった」と言っていたという。息子も、コロナ禍の制限や勉強に追われる高校生活のなかで、ただの入れ物になっていた校舎が、自分たちのものだと感じられる空間として戻ってきた気がすると言っていた。要求が満たされるかよりも、この仲間と一緒に共有する空間と時間が本当は欲しかったのだと。

 

 とにかく抱えているもやもやを吐き出そうとする若者たちのたくましいエネルギー、そういう若者たちを見ていると熱いものがこみあげてきてつい応援してしまう大人たち、という舞台を見せてもらった気がする。やっぱりイタリアと感じる一幕であり、一片の疑問を感じずにはいられない出来事だった。